しかし江戸中期から後期にかけ、
浸水のため廃坑となる間歩が増え、
産出量が減少すると、
採掘・選鉱・製錬・鋳造の全工程にわたり改革を加えながら操業に続けた。
明治維新以後、金山は政府の方針により官有化された。
英国人鉱山技術者ガワーなどの指導のもと、
近代的鉱山技術が導入され、生産額も増えていった。
明治22年(1889)宮内庁御料局の所轄にもなったが、
明治29年(1896)、
生野鉱山とともに三菱合資会社に払い下げられた。
以後、時代の要請に沿いつつ、
平成元年(1989)まで操業が続けられた。
開山以来388年渡る操業であった。
この間の産金量は78t、
産銀量は2330tである。
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